Blow windsto Japan from Palmerston North in New Zealand
2019年8月8日
私は今ニュージーラドの北島の首都ウェリントンから2時間ほど北に上ったところにあるパーマストンノースというニュージーランドでは学園都市として代表される町にいます。
ここ数年入れ替わりに、中には連続して、日本の子供達を連れてここにきています。
子供達は都市のマンモススクールではなく田舎の小さな学校に短期留学?というほどではない大袈裟ではなく混ぜてもらってニュージーランドの学校生活を経験し、放課後は地元のラグビークラブの練習に参加しながら2週間を過ごします。毎年は4週間を超える滞在でしたが今年は2週間に絞りました。
子供達の順応は早いもので初日から地元の子供達の間に入り仲良しになりました。1日の終わりには仲良しも出来て日本にいるときと変わりない学校生活です。
言葉の違いを越えてこんなに簡単に仲間入りが出来るのも、ニュージーランドの子供達の友好的な性質もありますし、この学校の教育ポリシーと教育システムにあるようです。質素な粗末な小さな学校だけれどここにある教育の中身が豊かで大らかで親切な開かれた子供達を育てているからです。
日本ならどうでしょう・・・・
朝の集会が終わった後10時までは遊びの時間です。バスケットボールをしたり、サッカーボールで遊んだりテニスボールで遊んだり、昼休みにはラグビーをしたりアスレチック遊具で遊んだりみんな自由に遊んでいます。先生達ときたら時々子供達の中に顔を見せはするけれどスタッフルームで朝のお茶の時間を過ごしています。
先生方の楽しんでいる様子は、日本なら生徒の世話や指導、授業の準備に忙しい時間ですがここではそんな様子ではありません。クッキーを頬張りながら片手にはコーヒーカップを持ってぺちゃくちゃ会話を交わしてワイワイ楽しんでいる様子は子供達の情報交換をしているのでしょう。
子供達は勝手に遊んでいます。途中から混ざりこむ子、オーイ一緒にやろうよ と誘い込む子 デタラメにかき乱す子 この辺は日本の学校の業間休みや昼休みの光景と変わりません。
と見てしまえばそれまでです。
が、ここに教育の、子育ての、エッセンスが隠されているのです。この間に2人の子供がビニール袋をもって校舎の周りのごみ拾いをしていました。特別な役割でなく、何かの罰でもありません。ちょっと仲間に入りきれない子供に退屈や仲間外れを感じさせないように仕事を頼んでいるのです。こんなところに仲間外れや疎外感を感じさせることなく自然に溶け込ませていこうとする配慮があるのです。
遊びに夢中な子供達は人数などに制限なく校庭入り乱れて遊んでいます。日本ならどうするでしょう。場所割を決めて、順番を決めて、ルールを決めて、ヘタすりゃ先生が笛を吹いて、危ないことは一切させない、前もって安全を守って、けが人が出ないように、親に責任を追及されないように、問題が起こりませんように、校長に見てもらえるように叱られないように・・・・という具合かも知れません。
ここでは、「子供達に勝手に遊ばせておく」時間が教育時間なのです。遊びの中からリーダーシップに優れた子供が育ち、サブリーダーに向く子供が育ち、リーダーやルールに従う子供が育ち、ちょっとしたケガやトラブルは子供達がフォローしあい解決していく力を養う計算された時間なのです。
小さな鐘の音で遊び時間は終わりです。子供達は一斉にクラスルームに戻ります。
そして、汚れた足や衣服を洗ったり脱いだりしてちゃんと先生の前に集まり、今日の授業が始まります。用意するものは、子供達の真剣な顔と聞く耳だけです。
日本ならどうでしょう。いつまでもけじめのない子供に手を焼いて「早く座れ!」と怒鳴り散らしたり追いかけまわしたり、教科書の用意をして、忘れ物や提出物の点検に追われ、酷いときにはつまみ出したり・・・・・よく見かける教育完成度?の高い生徒指導に熱心な学校?の風景です。
先生は時々生徒を指さしてどう思う? と意見や考えを聞きます。子供達はときどき手を挙げて先生に聞きます。先生はみんなに問いかけます。・・・・
こんな光景が当たり前の教室に時々校長先生が入っていって何やら話しかけ退屈そうな子供には「ちょっと待ってて」なんて声をかけてオフィスに戻りクッキーを持ってきて配ったり・・・・・出入り自由のスペシャルゲストの私には軽く手を振ったり・・・・日本では考えられない光景がどこの学校にも見られます。
特に町から少し離れた田園地帯にある小さな学校なので校長先生の子供に思う必要なやり方ができているのがよくわかります。
校長は必要なものを揃えたり注文したりこしらえたりするのに必要なプランを立て実行に移せるように進めるマネジメント能力が求まられます。何よりもスタッフが伸び伸び教師の仕事が出来るようにオーガナイズする力に長けていなければいません。決して優遇される給料ではないけれどその遣り甲斐に意気を感じて働いています。
スタッフはといえば、自分のクラスで自分のやるように(勿論最低の取り決めはありますが)子供達にどうなってもらいたいか、何を学んでもらいたいか、そのためには何をどうしなければならないか、そのために今日の今は何をするか・・・等々を自分で考え自分で進めていきます。
子供達は凡その年齢別クラスはあるものの、それはあくまで凡そであって決定的ではありません。13歳の子もいれば11差の子もいるクラスもあれば幼稚園みたいなクラスもあります。その反対には大人顔負けのデスカッションが出来るクラスもあります。決して無理やりの詰込みではなくゆっくりでも確実に子供が大人になっていくように計算された中にも自由度の高い教育内容のある学校です。
これがニュージーランドの学校のスタンダードモデルとは言い切れないにしろ、大体はこんなものです。
こういう学校を訪れて日本から連れてきた子供をこの中に放してやるとどうなるか?
体だけは1人前、知識だけは1人前みたいな子供が、言葉の壁とはいえ何も喋れない主張出来ない表現できない、シャイの一言ではすまされないほど力の無い子供であることがわかります。何日か重ねるうちに溶け込んでなんとか????ということはありますが、日本で事細かく指導されていた「教育」が何の役に立ったのか、本物の「教育」が身についていたか」 を問い返される状態なのが日本の教育の現状です。
日本の有名校、特色ある人気校にしても憧れの都市の学校にしても、田舎の学校にしても既に文科省のカリキュラムに平均化されてしまった日本の学校が知力以外に何が優れているというのでしょうか?
これを知ってしまえば、私に小さな子供がいるのなら(そして私にお金があるのなら)日本の学校には入れたくない気持ちになって当たり前です。
日本の学校の先生方が1人でも多くこの現実を見て、感じて、自ら変えていかなければ日本の子供達は可哀想です。
広い世界に出て日本を知って、世界に活躍できる人間を育てなければいつまでたったも自惚れの強い独りよがりな島国根性の日本人しか育ちません。
経済力技術力で「世界を相手にしている日本」を標榜する日本国政府は自分達だけでいい気になっている「日本」という国をこれからどうしていくのかを考えなければなりません。
実際の貧窮する暮らしを知らない世襲お坊ちゃまの集まりが国会という遊び場所にならないようにせねばなりません。後発の若い政治家の中にも戦争を横臥するものがいたり自分の欲を抑えきれない色恋沙汰に溺れる者がいたりの実態です。何のための政治で誰のための政治なのか・・・・
遠く母国を離れ、パスポート1枚を頼りに世界に出ている日本人は多分同じ思いでいることでしょう。
遠く冬の寒いニュージーランドから暑い日本に向けて
子供達が発見吸収した世界と日本の違いが生かされる日本の学校、日本の社会でありますように祈ります。
2019.8.8
At Palmerston North in NewZealan