サムライブルーの頑張りは多くの人に勇気を与えてくれました。(と、思う)
セネガル戦ではその勝ち方にあれこれ言われ
ベルギー戦では手のひらを反すように称賛を浴び
日本って国は なんだろな~ って密かに呆れています。
スポーツにはルールがあってその範囲なら勝ち方なんて無いのに・・・・
スポーツには必ず勝者があって敗者があるのに・・・・
(引き分けってのもあるけど・・・)
見ている者にとってはその勝ち方負け方に感動したり共鳴したりしているだけで
勝てば喜び、負ければガッカリ…なんていうのは当たり前のことで
終わってしまえばそんなに騒ぐことでもないのに・・・・・
サムライブルーが残したニュースは
日本人の死闘を尽くす戦い振りだったり
試合後のロッカールームの片づけ清掃だったり
応援席のごみ拾いだったり・・・・
日本人のマナーの良さを印象付けることがほとんど・・・・
でも、本当に日本人ってそうだろか????
これを機に、日本人というものがみんなサムライブルーのようになればいいだろうけど・・・
そのことに気付く日本人っているのかなぁ
Jリーグが始まった頃のサッカー選手ときたら
ろくに喋れもしない、話し方もわからない礼儀もなにもあったものではなく
高卒のサッカー部上がりを高額の契約金で引き抜いて、チヤホヤもてはやして・・・の酷いもんだったことを知っているだろうか???
それが今では子供たちの夢とマナーのお手本になるまで成長しました。
(このお手本が子供達のこれからにいいものでなければなりませんよ・・・)
サムライブルーといわず、スポーツがこれだけコマーシャル化したいま、
スポーツのもつ影響力・教育力は無駄には出来ません。
このスポーツの持つ教育力をつかった教育ができる指導者がどれだけいるか といえば残念なことにそう多くはありません。
大学高校、中学小学校、スポーツクラブの実際の試合現場を見れば、
ただ勝つことだけに、ただ名声を得ることだけに、ただ称賛に胡坐をかきたい人たち が多い現実に釈然としない気持ちです。
このサムライブルーの残した歴史の1ページが
種目の如何を問わずスポーツの教育力を生かしたスポーツ指導、
スポーツ活動にかわって広められることを期待します。
メディアも多くのマスコも、スポーツ庁でさえ、
勝ったことに焦点をあてた評価でしかコメントしていません。
これが圧倒的な負け方をしていたらどうだったのでしょう・・・・
負けても勝っても、その戦いの中には一所懸命があり最善を尽くした尊さがあるのです。
スポーツには勝ち負けがあって当たり前、
勝者も敗者も同じように称賛されて当たり前です。
監督の責を与えられた者にはそれなりの考えがありそれなりのベストを尽くして当たり前。
選手には選手のベストがあって当たり前。
負けて悔しいのは誰だって当たり前。勝って嬉しいのは誰だって当たり前。
喜びを分けてもらえてうれしいのは当たり前。負けて残念なのは当たり前。
だからといってそんなに大騒ぎすることなのだろうか。
それはそれ、これはこれではないか。
スポーツを観る文化が育ってないのは今までのスポーツの捉え方が、取り入れ方
が、違っていたのではないだろうか・・・・
スポーツ庁が発足したのは選手強化メダル獲得国威掲揚のためだけだったのだろうか
もっと国民の幸せ、国民の健康、国民感覚のスポーツ文化を目指していかなくていいのだろうか・・・・・一部の浮かれ気分のイベントでいいのだろうか・・・
私は外国で昔のサムライスピリットというものを話し、
主君(国)或いは家族という大切なものを守るため、日頃の鍛錬を惜しまず、滅多に抜かない刀に侍の心の支えがあったことなどを話す時があります。
大切なものを守るために自分を鍛え、一旦刀を抜けば自分自身も傷つくかもしれない危険な刀を腰に差し、終生他者を殺めたことのない我慢強い貧乏侍がいたことを話して聞かせるのですが、その中にある嗜みや長い間積み上げらた日本人の体質、国民性という「話の核心」を興味深く聞いてくれます。
そして自分たちの日常に置き換えてそれぞれのレベルでデスカッションをして、人の真の強さや幸せというものを考える授業をするのですが
生活の中にあるサムライスピリットは世界中に通じる人のあり様を伝えることが出来るいい材料になっています。
出来過ぎの感ある今のサムライブルーのスピリッツがこの後どう生かされどうつながっていくのかはこれからの課題ですが
時代は繰り返すで、サッカーだけの自惚れに変わったりはしないかと心なしか心配も残るノーサイド後の騒ぎです。
これを生かすのはこれからです・・・・
(これを生かすも殺すもこの国(日本人)次第ということかな??)